2008年10月30日
嬉しい万代太鼓40周年記念太鼓フェスティバル
26日日曜日、新潟市で万代太鼓創設40周年を記念する太鼓フェスティバルが行われました。万代太鼓は「新潟万代太鼓振興会」の名で学校や地域、企業など23の団体が集う新潟県最大規模の太鼓チームで、初代会長だった故小泉光司さんには親父の代から何かと懇意にしていただきました。
このチームの真骨頂は、なんといっても「小バイ」の面白さ。横置きに据えた桶胴太鼓の面の真横に構え、手首を回転させながら左右のバチを寝かせるようにして打ち込む独特の技は、軽快に馬が駆けていくような小気味よさで三ツ打ちのリズムを刻みます。この打法、ルーツは石川県の片山津太鼓で、その代表の故見神さんの指導を受けて小泉さんが万代太鼓に取り入れたのでした。以後、40年にわたって受け継がれ、今では万代太鼓のお家芸として大人から子供にまで浸透しています。また鬼太鼓座の名曲『三国の大太鼓』を生み出したのも、この三ツ打ちでした。
元鬼太鼓座メンバーの藤本吉利さん山口幹文さんもゲストとしてステージに上がった4時間近い公演は、万代太鼓を応援する地元の皆さんの熱気も加わり汗ばむほど。地域に太鼓を根づかせて大きく育て上げた万代太鼓の継続力と、石川の太鼓のDNAがしっかりと新潟の地に伝承されていることを目の当たりにした、嬉しい一日でした。
万代太鼓フェスティバル
2008年10月28日
風間さんの壮行会とケヤキの植林
先週火曜日の21日、冒険家の風間深志さんの「アフリカ縦断壮行会」が東京で行われました。風間さんとは、私が参加しているロータリークラブで講演をお願いしたご縁があり、どんな困難にもくじけることなく未知の世界にチャレンジする勇気に大変感動したものです。
壮行会では思いがけなくスピーチのマイクを渡され、心からの激励の言葉を贈りました。ただし、私の前に壇上に立ったのが元バレーボール選手の大林素子さん。というわけで、身長差約40cmのリレーに挑んだ一幕は、私にもちょっとした冒険でした。ともあれ、前の冒険で左足に大きな傷を負いながらも、今度はアフリカ縦断に挑むという風間さん、どうか無事に帰還されることを祈るのみです。
続いて23日の木曜日、能登半島穴水にて、今年で第6回目となるケヤキの植樹を実施しました。前日の夕方から雨が降り始めて雲行きが心配でしたが、幸い、現地に着くころには太陽が顔を出し、おだやかな日和のもとでの植林となりました。山の尾根まで続くS字の道をたどると、2年前、3年前に植えた木が3メートルほどに成長し、紅葉した梢を誇らしげに空にさしのべています。今年は2mほどの幼木を2000本、社員全員で植えました。10カ年計画で始めた植林も残すところあと4回。これから200年後の木々の姿を思い浮かべると、心が躍ります。どうか、どの木もすこやかに育ちますように。
風間さんと
大林さん
私 浅野
欅山にて植樹
植樹した幼木
みんなと記念写真
2008年10月 6日
忘れ得ぬ太鼓二題、国立劇場「日本の太鼓」と近江八幡の大太鼓
このところ北陸は気持ちの良い秋晴れが続いています。天高く澄み渡った空というのは、その下にいる人間に限りない勇気と力をもたらすようで、増してこれからの季節、急激に日照率が低下していく北陸の人々にとって、雲一つない秋の晴天は、何よりも貴重なエネルギーの源といえるでしょう。
さて先週の9月27・28日、国立劇場で昭和52年から開催されてきた「日本の太鼓」の一つの区切りとなる「人智千響」が開催されました。思えばこれまで、なんと多くの太鼓がこの舞台で渾身の雄叫びを上げたことか。第一回の出演は、御諏訪太鼓、御陣乗太鼓、助六太鼓、みやらび太鼓、表佐の太鼓踊り、佐原囃子、弥彦神社舞楽、兵庫つかいだんじりの8団体。以来、時代とともに進化・多様化してきた日本の太鼓の様相を、この舞台は実直に伝え続けてきました。
そうした中で、忘れがたいシーンは数多くあります。「北海太鼓」大場一刀の気迫のこもった打ち込みと流れるようなツバメ返し、「御諏訪太鼓」小口大八のさっそうとした勇姿、「尾張新次郎太鼓」西川新次郎の目にも鮮やかな曲バチ、田耕率いる「鬼太鼓座」の緊張感に満ちた音塊、福井「不老太鼓」玉村武の味のある三つ打ち。いずれも現在の日本の太鼓に大きな影響を残しつつ、今となっては五氏ともが鬼籍に入られたのがなんとも惜しまれます。
その「日本の太鼓」がスタートしたのと同じころ、浅野太鼓に1張の大太鼓が運ばれてきました。近江八幡から革の張り替えのためにやってきた太鼓です。日牟禮八幡宮の例大祭として千年以上の歴史をもつという八幡まつり(一日目は「松明まつり」、二日目は「太鼓まつり」とよばれる)に奉納される大太鼓で、口径5尺。けやきの胴の堂々たる勇姿も見事でしたが、何よりも驚かされたのは、胴の中央に鎮座する座金の並外れて大型なこと。直径が30cmもあろうかと思うほどの丸い座金がお供え餅のように三重に重ねられ、中心にはこれも男の腕の太さほどもある鉄製のカンがデンと居座っています。その存在感たるや、まさに「太鼓の王者」たる風格を放っていました。この座金とカンがいつごろ、誰の手によって製作されたのかはわかりませんが、胴の枯れ具合から察するとかなり早い時期のようです。とすれば、まだ流通の発達していない時代、どのようにしてこれだけの鉄を調達したのか。また、おそらく地元の野鍛冶であろう製作者は、どのようにしてこれほどの高度な技術を身につけたのか。もともと歴史が好きな私は、この太鼓の張り替えが終わるまで、座金とカンの生い立ちを巡って空想の歴史街道を旅したのでした。そして、太鼓の付加価値を高めるうえで座金とカンがいかに重要なものであるかにあらためて思い至り、現在の浅野太鼓の座金とカンを考案したのでした。
今、工場では近江八幡と同じく琵琶湖畔から運ばれてきた大太鼓の張り替え作業が進行しています。これもまた見栄えのする立派な大太鼓。その太鼓を見るたび30年前の驚きを思いだし、背筋が伸びる今日このごろです。
5尺の大欅太鼓