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2012年10月31日

尾道と釧路の太鼓文化を育んだ人々

 26日、20数年来お世話になってきた広島県の「尾道ベッチャー太鼓」代表の吉原正幸さんのお通夜に参列させていただきました。地元のベッチャー祭りを世界に広めることをめざし、地域では男気あふれるリーダーとして活躍され、また家庭では良き夫であり父であった吉原さんのお別れには多くの人が駆けつけ、また翌日の告別式では、読経が済んでも誰一人席を立つことなく、最後まで残って献花を捧げていたことが、いかに故人がたくさんの人々に愛されていたかを物語っていました。 

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出棺の際にはメンバーの皆さんが送り太鼓で見送り、その音色には「吉原さん、どうか安らかに。そしていつまでもふる里を見守っていてください」との願いが込められているようでした。吉原さん、心よりご冥福をお祈りいたします。

 

 

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  明けて28日は、北海道釧路市の「くしろ蝦夷太鼓」45周年記念演奏会。この団体も石田会長のもと45年にわたって地域に太鼓文化を根づかせることを目ざし、会場では創立メンバーの孫やひ孫の世代の子供たちも舞台の上で晴れやかにバチを振るっていました。客席では「根室太鼓」代表の住田さんや、「平原太鼓」の大友さんなど懐かしい顔も見え、80歳を過ぎてもいまだ矍鑠としたお姿に感激。久し振りに旧交をあたためました。

  尾道と釧路、地域は違えど、地域に文化を育み、根づかせようと情熱を注いだ人々の熱い思いを感じた3日間でした。

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2012年10月25日

白山市の誇り、西さんの絵に感激。週末は子供たちと陸前高田へ。

  今月11日(木)からに28日(日)まで、東京銀座の貴金属店GINZA TANAKAの6階ホールで、『西のぼる〜文学の絵展』が開催されています。西さんは我が社と同じ白山市にお住まいのさし絵画家で、地方にいながら中央の著名な作家のさし絵を多く手掛けられ、2001年には平岩弓枝作の小説「はやぶさ新八御用旅」と宮城谷昌光作の「華栄の丘」のさし絵で第32階講談社出版文化賞を受賞。今回の個展は今年1月22日から5月13日まで日本経済新聞朝刊に連載された安倍龍太郎さんの「長谷川等伯」のさし絵を紹介したもので、西さんも等伯もTANAKAの社長さんも同じ能登出身であることから、TANAKAの社長さんが企画されたとのことです。

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  思えば西さんとのおつきあいは30年近くにもなり、最初は白山比咩神社に奉納した鼉太鼓の彩色をお願いしたのをきっかけに、その後も小太鼓のデザインや浅野太鼓キャラクターのデザイン、近年では創業400周年に制作した記念誌と風呂敷のさし絵を描いていただくなど、いつも我が社の歩みをあたたかく見守ってくださっています。そんなご縁で、私も17日に会場へ。展示された100点あまりの絵は、西さん独特のやさしい色調が落ち着いた雰囲気をかもし、心豊かなひと時を過ごしました。白山市、そして石川県の誇りでもある西さん、これからもますますご活躍されますよう、楽しみにしています。

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 その週末、焱太鼓とサスケの合同チーム「壱刻壱響団」とともに、岩手県陸前高田市に出発。東日本大震災により、昨年は名古屋で開催された「全国太鼓フェスティバル」に出演するためで、この機会にサスケの子供たちにも被災地の現状を見て欲しい思いもありました。
 気仙沼湾からの冷たい海風が吹く中、大津波によって破壊された陸前高田市役所や、一昨年まで太鼓フェスティバルが開催されていた市立体育館の廃墟を目の当たりにした子供たちは、テレビの映像よりはるかに悲惨な状況に大きな衝撃を受けたようで、深々と頭を垂れて手を合わせていました。ここで亡くなったたくさんの人たちのことを忘れず、これからも太鼓に向かって欲しいと願います。そして、被災された皆さんが一日も早く本当の笑顔を取り戻し、被災地の復興が順調に進むことを祈るばかりです。

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2012年10月 8日

輪島のニュースに衝撃を受ける

 6日、地元紙の夕刊に、輪島の「稲忠漆芸堂」が倒産したことが大きく報じられました。04年に経営破綻したものの、民事再生手続きにより立て直しを目指していた途上のことであり、輪島市の基幹産業である輪島塗を牽引してきた漆器企業の倒産は、地元輪島市はもちろん、石川県の経済界にも大きな衝撃となりました。

  稲垣民夫さんとは、若い時分、能登半島の祭りに曳く「キリコ」という山車を従え、焱太鼓とともに何度か海外公演に赴いた間柄。情熱的に輪島塗を広め、輪島市の活性化策の一つとして、冬の輪島で「日本太鼓フェスティバルin輪島」を提案したのも稲垣さん。太鼓イベントといえば、通常は1日か2日が当たり前ですが、稲垣さんは「ぜひとも1週間継続したい」と私を驚かせ、毎年、全国から太鼓チームを招き、1994年からおよそ10年間にわたって市ぐるみの「輪島冬祭り」を盛り上げたのでした。

 また、もっと若い自分、稲垣さんとは県の伝統産業青年会でよく一緒になり、私などまだ普通トラックしか持っていないころ、さっそうと高級車で乗り付けてくる姿がまぶしく、いつかはあんなふうになってみたいと憧れた人でもありました。

 しかし、日本人の生活様式の変化にともない、企業努力だけでは会社を維持するのが難しい時代になりました。住宅に柱がなく、和室がなく、仏壇がなく、食事も洋風化し、輪島塗のお膳やお椀が必需品だった冠婚葬祭も式場でおこなうようになり、輪島塗はどんどん日常生活から遠ざかりました。新聞によれば、90年代前半の売上高は20数億円。それが03年ごろには半分以下に落ち込んだとのこと。日本経済が停滞する中、輪島塗をあまりに高級品化してきたことも、売れ行きの不振につながったのかもしれません。

 稲忠さんの一件は、決して他人事でなく、我が社としてもいろいろ考えさせられました。今の時代、何をどう見極めて転換期を察知するか。今後、どんな方法に活路を見出せばいいのか。悩みは尽きませんが、この難しい時代、とにかく足元だけはしっかり固めていたいものです。

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