2021年7月22日
私のエクスタジア物語
白山国際太鼓エクスタジア実行委員長 浅野昭利
(一般財団法人浅野太鼓文化研究所理事長)
エクスタジアの前身である太鼓の野外コンサート『BEATS OF THE LIFE 壱刻壱響祭'93 ~リズムの生誕/生誕のリズム~』から数えて26回目の開催となるはずだった昨年の『白山国際太鼓エクスタジア2020』は、新型コロナウイルスの感染拡大という思いがけないアクシデントにより、やむなく中止の決断をせざるを得なかった。その時のやり場のない悔しさとやるせない気持ちは、われわれ実行委員だけでなく、開催日を目ざして日々稽古に励まれていた出演者の皆さんや、毎年夏の恒例行事としてチケットの発売日を待ちかねていたリピーターの観客の皆さんも、きっと同じだったことと思う。それゆえ、会場の入場制限5割という厳しい環境の中でも、「今年こそ」の気合いをこめて『白山国際太鼓エクスタジア2021』の開催にこぎつけ、エクスタジアの灯をつないでいけることを、心から嬉しく思っている。今回の開催に向けて後押ししてくださった多くの皆さんと、行政の献身的な応援に、ただただ感謝あるのみです。ありがとうございます。
昨年、手もちぶさたでぽっかりと胸に穴があいたような夏、あらためてエクスタジアの来た道を振り返ってみた。
その発端は、1992年、石川県を会場に行われた『第7回国民文化祭・石川』。県内各地でさまざまな事業が展開され、ここ松任市(現在の白山市)で行われたイベントが『ふる里の響き太鼓まつり』。1980年代後半の地域活性化ブームの影響などで各地に続々と太鼓チームが誕生し、当時は太鼓ブームが右肩上がり。会場都市の特権で、全国47都道府県から「これぞ」と思うチームを各1団体ずつ選抜し、さらに8団体のプロチームを加えた55の太鼓団体を招聘。松任総合体育館に設けた特設ステージで、次々に自慢の腕前を披露。その演奏時間は、なんと、のべ10時間にもおよび、熱心な太鼓ファンを根こそぎしびれさせた。今思い出しても、まことに豪快な舞台だった。
といっても、実はフタをあけるまでは、これほどの盛況を招く自信はなかった。ただ「せっかく石川で国民文化祭が開かれるなら、太鼓という切り口でかかわりたい」と、意気込みだけが先走ったスタート。幸い、当時NHKのプロデューサーだった和田勉氏の斬新な構成と、松任市役所太田部長の太っ腹な裁量、そして両者の橋渡し役として奔走してくれた事務局の徳井孝一氏(現文化財保護課課長)というベストメンバーに恵まれ、予想以上の成功を収めたのだった。
この体験を通じ「太鼓がこれほど多くの人々を感動させるのか」と、あらためて思い知った。この思いはその場にいた多くの人に共通していたようで、翌年3月、松任市の新たな和太鼓芸能の可能性を探るための研究グループ『壱刻壱響祭実行委員会』が、徳井氏を中心として活動開始。4月、約40名からなる『壱刻壱響祭'93 実行委員会』を開催。席上、「ここは古くから虫送り太鼓が受け継がれてきた土地柄。その伝統を踏まえ、コンサートは野外で」との意見が一致。、そしてついに7月25日、松任総合運動公園スタジアムを会場に、ボランティアによる実行委員会スタッフ総勢160名、演奏者200名により第1回『BEATS OF THE LIFE 壱刻壱響祭'93 ~リズムの生誕/生誕のリズム~』を開催した。出演はソリストの時勝矢一路氏、福井の『はぐるま太鼓』、元『鼓童』メンバーの高野巧氏、栃木の『水芭蕉太鼓』、ジャワ・ガムラングループの『ダルマ・ブダヤ』、結成まもない『炎太鼓』ほか。陽の落ちた会場にかがり火や手筒花火が明々と燃え盛り、芝生の上で演者と観客が一体となって太鼓の響きを共有するコンサートは、ダイナミズムそのものだった。
奇しくもその前年、ファッションデザイナーでイベントプロデューサーの山本寛斎氏がロシア・赤の広場で開催したイベント『ハロー・ロシア』に炎太鼓が出演。私にとっては初めての野外イベントだったが、そこで学んだイベントづくりのノウハウが、壱刻壱響祭で大いに役立った。寛斎さんは惜しくも昨年他界されたが、ロシアのあともたくさんのイベントにお誘いいただき、大きな影響を受けた。私が今、曲がりなりにもあちこちで太鼓イベントのプロデュースをさせていただいているのも、ひとえに寛斎さんの背中を追ってきたおかげといっても過言ではない。
以後、運営体制の改善や市町村合併などにともないイベントタイトルを改称、『白山国際太鼓エクスタジア』の名称が定着した2008年。7月27日の開催日当日、金沢・白山市一帯は朝から晴れやかな晴天に恵まれていた。しかし、午後になると空模様が一変。上空はまたたく間に真っ黒な雨雲に覆われ、夕刻から激しく降り出した雨は翌朝になってもやむことなく、金沢では55年ぶりに浅野川が氾濫。周辺地域に大きな被害をもたらした。「ゲリラ豪雨」という言葉が使われ出したのは、このころからだ。幸い白山市は大きな被害もなく、エクスタジアは無事に終了できた。だが、ステージを急ごしらえのテントで覆い、観客にはビニール合羽を無料で配布するなど、事務局は終演まで事態の対応に追われた。そして翌年以降も決して「ない」とはいえないゲリラ豪雨から観客を守るためにも、この経験を教訓に、以後は会場を屋内に移すことを決めた。
こうして開放的な野外公演から、オーソドックスなホール公演へと転換したエクスタジアだが、会場が変わろうと、どの年のどのシーンも私には思い出深いものばかりだ。97年、華道家・勅使河原宏氏の舞台美術監修により、3000本の真竹を使ってステージ周りを竹のインスタレーションで囲んだ豪快な演出。舞台に高さ20メートル近い2本のご神木を屹立させた98年の神秘的なステージ。また2003年、13年、16年、18年と4度にわたり、堂々と居並ぶ大太鼓の醍醐味を堪能させていただいた林英哲氏と英哲風雲の会による名曲『七星』の圧倒的な存在感。2015年に全国から選りすぐった女性の打ち手だけで編成したユニット『大太鼓響奏団 め組』の凜々しい姿も忘れがたい。振り返れば究極の太鼓コンサートを追い求め、私のわがままの限りを尽くした贅沢な27年間だった。だが有り難いことに、こうした型にはまらない“エクスタジア気風”とともに、これまで出演してくださった皆さんの奮闘による芸術性に対する国内外からの高い評価や、地道な作業の積み重ねに尽力してくださったスタッフの皆さんの努力などが相まってか、「一度はエクスタジアに出演したい」と言ってくださる演奏家が後をたたない。まったく、この上なく嬉しいことだ。
エクスタジアを含め、永年にわたって国内外の太鼓演奏に間近に接してきた上で、私が現在感じていることを少し述べてみたい。かつては祭り囃子や邦楽囃子など、脇役の一つの楽器に過ぎなかった太鼓が、現在のように『コンサート』という形で舞台の上で演奏されるようになって50年。その創生期である1970年代、80年代、太鼓は土着の荒々しさや、太鼓を通じて自分が何者かに化身できるかのような大いなる野望のもと、その一心不乱に打つさまは、聴く者・観る者に背筋がゾクゾクするような、自然に涙がこぼれるような感動に引きずり込むシーンが多くあったように思う。やがて90年代から2000年以降、太鼓芸能は一つの「文化」として国内外の認知を得るまでに成長。演奏の形態や表現手法、楽曲の多様化など、さまざまな面で進化し、創生期の純朴な太鼓に比べればはるかに高度化・音楽化してきた。その結果、耳に心地良く、音楽性の高い音づくりが昨今の主流になってきた一方、かつてのような理屈抜きのエクスタシーに遭遇する場面が少なくなってきた。端的に言えば「物足りない」のだ。すべからく、一つの文化が洗練され、発展していく過程において、そうした状況は「よくある変化」なのかも知れない。しかし、私はその足りないもの、忘れられようとしているものを、もう一度甦らせたい。打ち込んだ一打が表革から裏革に抜けてとどろき、そこにいる人の胸の奥底まで鷲づかみにして、身動きさえとれなくするような深い太鼓に、また会いたい。
第1回の壱刻壱響祭から27年の歳月が過ぎ、私は74歳になった。近ごろは毎年エクスタジアを迎えるたびに「これが最後かも」という覚悟をどこかで感じている。そうしたこともあり、突然“最後”がやってきても悔いを残さないよう、今回は長い間の念願だった“空前絶後”の舞台をつくることにした。林英哲と鼓童が一つ舞台に集う、夢の響宴!芸術性豊かな太鼓ソリストとして国内外から高い評価を受けている林英哲氏と、太鼓芸能集団として国際的な活躍を続ける鼓童とは、林氏が太鼓演奏家として独立した際の経緯などから、共通の舞台に立つことはこれまで暗黙のうちにタブーとされてきた。しかし、日本の太鼓界を背負って立つこの両雄の演奏を、一つの舞台で聴くことができれば、なんという幸運だろう!私も観たことのない唯一無二の舞台が実現すれば、思い残すことは何もない。そんな思いで取り組んだ今回の企画だ。第1部に林英哲コンサート、第3部に鼓童コンサート、そして第2部は川北町で躍動する『手取亢龍若鮎組』と、手塩にかけた『焱太鼓』『和太鼓サスケ』、今後の精進が期待される関東の『ひむかし』がプログラムを彩る。観客の皆さんにはどのシーンもしっかりまぶたに焼き付け、終生の“心の宝”としていただければ、幸いである。
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